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秋月何時記

秋月伊槻のあれこれを書いてます

接触する機会

 ここのところファミレスに駐在する時間が半端ないぼくですが、やはり人様が作るモノをみるのは大変為になります。
 それが作品と呼べるどうかではなく、そこに作り手がいて結果があればなんでも。
 文字、映像、絵。
 完成されていなくても、そこに意志を読み取れればなんでもいい。
 作り手の意志を読み取れたらもっといい。


 でも「出来たらいいな」ってだけで、それ自体は実は凄く難しいんじゃないだろうか。
 作者の解説がついていようが、文章から上手く言葉を抽出してきて表現の奥を読み解こうが、それを制作していた時の作者の意志をくみ取ることなんて果てしなく難しい。
 そもそも会話というもっともダイレクトに意志を伝える手法を用いてすら、満足に意思疎通出来ないというのに、表現を限定した上でそれが容易になるとはとても思えない。
 モノを作っていると、「どうやったら見やすくて伝わりやすいか」を考えたりしたりするけど、大抵は「やりたいように」やる。
 見せたいモノを自分が見えるように作っているんだから、自分と波長が合えば大体が見える筈だと。


 反対に、見る側も「見たいように」見る。
 それぞれに趣味趣向があるし、なにを目的に見ているかって所から全員が共通じゃないわけだから。
 何しろ見え方が十人十色なんだし、同じ読み物を読んだとして「同じ世界観を共有している」なんてのは確認のしようも無いしね。
 気に入った部分を残して、不快だったり気にくわない所は記憶から無意識的に除外したりするだろう。
 それによって作品の感想が変わってくるにもかかわらず、その選択基準は正に個人差の塊。
 それぞれが自己を自己と確立する為の要素であり、好みが別れる最大の理由なんじゃないだろうか。


 作り手はそんな不確定な要素を持った相手に対して、自分が伝えたい「意志」をどう伝えて行くのかを考えるもんだと思う。
 情報の操作。ヒントの出し方。本題へのアプローチの仕方。文章構成。平面構成。云々。
 その作品から何を読み取るか、それは受ける側の自由だし、誰にも拘束されない。
 好き勝手に読んで、好きに推理し、妄想し、盛り上がって、帰結する。
 作り手はその一切に対して要求することなんて出来ないわけだ。


 好きに描いているわけだから、好きに読ませるべきだ。とね。
 読んでくれたってだけでありがたいのよん。






 疲れてるんだな……俺。